Barbara Y. Martin Part 3: Entering the World of Teaching

ディミトリ・モライティス

1985年のバーバラ
1985年のバーバラ

バーバラはしぶしぶ教育の世界に入ったと言います。何年も訓練と準備を積み、素晴らしい才能がありながら、形而上学の教師として仕事を始める段になると彼女はためらいました。当時は本職の形而上学の教師はほとんどおらず、それを仕事にすることは危険に思えました。彼女が提供しなければならないことに人々が興味を持つことに確信が持てなかったのです。彼女にはまだ創作を追求したいという気持ちがありました。しかし彼女を最も慎重にさせたことはその責任でした。どんなやり方であっても魂を誤った方向に導けはカルマ的な責任があります。 また多くの労力が必要でした。形而上学の教えは夢中にさせる試みです。教師は聖なるインスピレーションの導きに従わなければなりません。クラスの内外で働きます。人々を助けることは大好きでしたが、正式な教師になったら彼女の人生が多くの面で自分のものではなくなるだろうということがわかっていました。 けれども、彼女はまたこれが彼女の運命だということもわかっていました。

彼女が最初にプロになる機会は保険会社で働いていたときに訪れました。あるとき昼食を一緒に食べているときに、同僚の友人に、「あなたは再婚するわよ」と口を滑らせてしまいました。その女性は子持ちで離婚していました。彼女はその話全体が馬鹿げたことだと思い、「バーバラ、誰が6人の子持ちの私と結婚するかしら」と言いました。

それから間もなくその女性は同級会に行き、やはり離婚していた昔のボーフレンドと再会しました。あっという間に彼らは結婚していました。この女性は感動して「バーバラが何を知っているかわからないけれど彼女には何かがわかるのよ!」と人々に言い続けました。彼女はバーバラの講演を計画しました。それから人々は彼女のクラスに加わりたいと集まってきました。バーバラは「何のクラス?私はクラスなんてやってないのよ!」と言いました。まあ、その日からバーバラは定期的に教え始めたのでした。

クラスが増えていくにつれて働きながら教えることは難しくなりました。高次の存在からは、仕事をやめてフルタイムで教えるようにというインスピレーションを受け取っていました。しかし、彼女は日中の仕事をやめるのをためらっていました。彼女が説明するには、クラスに出かけるときにはいつも車は問題なく動くのに、仕事に行くときには車に問題が起こりました。整備士に車を持って行ったもののどこも悪いところはありませんでした。ある日、仕事に行こうと運転していたとき、フリーウェイで車が故障しました。そのとき彼女はメッセージを受け取りました。その日、彼女はフルタイムの仕事として教師になることに同意しました。

教師として新しい世界が彼女に開かれました。クラスのたびごとに神聖な存在が彼女の近くにやってきて、長年の訓練をまとめあげ、新しいインスピレーションをもたらしました。前もって準備された講演も多く行いましたが、高次の存在がやってきてインスピレーションを受けた話や、特別な瞑想やお祈りをすることもありました。こういった時代の教えは、後に彼女が書くことになる本やマニュアルの基礎となりました。

彼女は自分のことをむしろ教師とみなしていたものの、オーラのワークで特に知られるようになりました。多くの人々が彼女が提供しないではおけなかったことに興味を示すことがわかり、素早くクラスを立ち上げました。 彼女のような仕事をしていた人は多くはなく、彼女がし提供しないではおけなかったあらゆることがオーラと形而上学として言及され、人々がやってきました。パワフルなヒーリングの仕事も行い、それがさらに彼女を有名にしました。

こういった先駆的な時代は魅惑的な時間でした。しかし多くの試練がありました。財政難でした。生徒、友人、家族は、その好機に必ずしもあたたかく答えてくれたわけではなく、バーバラにより多くを強いました。それでも、それをすべて通りこし、完全に新しい形而上学の時代、まだ開花しつつある時代の基礎を築きました。スピリチュアルな生徒としての私たちの彼女への恩義ははかりしれません。

誕生日をお祝いするに際し、バーバラが私たちにしてくれたことすべてに感謝します。こういった教えをもたらしてくれた長年の献身と熱心さに感謝しましす。スピリチュアルな可能性に本当に到達できるように私たちを助けてくれていることに感謝します。そして、このような素晴らしい教師を送ってくれた聖なる存在たちに感謝します。

Copyright 2013, Barbara Y. Martin and Dimitri Moraitis.
Reprint from http://aurablog.org/2013/06/25/barbara-y-martin-part-3-entering-the-world-of-teaching/
日本語訳Megumi 無断転載を禁ず

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Barbara Y. Martin Part 2: The Years of Spiritual Training

ディミトリ・モライティス

10代のバーバラ
10代のバーバラ

人々がバーバラのスピリチュアルな才能と、彼女がそれらの才能を見たところ簡単に表すのを経験するときに見えないものは、そういったスピリチュアルな才能を発達させるためには長年の訓練と開発が必要だったということです。

バーバラは、11歳の時に、彼女の人生を変えることになる女性と出会いました。彼女の家族はミズーリ州のカンザスシティに引っ越しました。そこで彼女はドロシー・ラ・モスによってによって率いられていた有名な演劇一座に加わりました。ある日、ドロシーは、彼女と個人的に対面して「あなたはオーラが見えます」と言いました。バーバラは自分が見ていたものがオーラと呼ばれていたことすら知りませんでした。この日から彼女の形而上学の分野におけるスピリチュアルな訓練が始まりました。ドロシーは秘教主義者で、オーラも見えました。母親と祖母から受け継いだ古い手書きの本を持っていました。これらの文書は、スピリチュアルな世界の多くの側面だけでなく、オーラを細部に至るまで描写していました。若いバーバラは、ドロシーのスタジオで彼女と一緒に何時間もスピリチュアルな才能について学び、形而上学の世界を発見しました。この新しい知識を身につけたことで、バーバラは彼女が見ているものを理解し、解釈することができました。

この経験の結果、彼女は、聖なる存在たちとの直接訓練を始めることになりました。天使や他の神聖な存在たちは、彼女を助け、祝福するためだけでなく、彼女に教えるためにもやってくるようになりました。こういった神聖な存在たちと交流することで、バーバラのスピリチュアルな力と才能は増加していきました。

このようにスピリチュアルな生活は進化していきましたが、彼女は自分が知っていることについて沈黙を保ちました。高校時代には、スピリチュアルな才能をわきに追いやって「普通の」生活をしようとしましたが、神には違う考えがありました。結局、彼女はスピリチュアルな生活は自分の一部だと気づきましたが、それでも、他の人に話すようなことではなく、個人的に探求するものとして考えていました。

19歳のときに、彼女は、レッド・スケルトン、モナ・フリーマン、スーザン・ヘイワードといった人たちを含む米国慰問協会のためにバラエティ・ショーをプロデュースしていました。しかし、スピリチュアルな召喚が彼女を誘い続けました。ある地点で、彼女は、エンターティメントは彼女の人生における宿命ではないと気がつきました。神は、彼女が形而上学の教師になることになっていると伝えました。バーバラは同意し、内的なスピリチュアルな訓練の期間が始まりました。彼女は直接体験として多くのスピリチュアルな生活の側面を見せられました。バーバラは深遠なスピリチュアルな視野を持つようになり、彼女を教育する素晴らしい神聖な存在たちがあちらの世界から訪問してくるようになりました。

その後、20代後半に、ロサンゼルスに住んでいるときに、彼女は有名な神秘主義者のアイネズ・ハート博士に会いました。アイネズは進化した魂で、講演活動はせずに、個人的なグループに教えていました。とても透視能力があり、スピリチュアルなヒエラルキーとの結びつきを発達させていました。

バーバラがスピリチュアルな才能を円熟させるのを助け、教育の過酷さへの準備を手伝ったのはアイネズでした。彼女はバーバラがいつか大衆の前でオーラについて話すだろうと伝えました。これは預言者的な言葉でした。なぜなら、当時は、オーラについてはほとんど何も知られていなかったからです。

バーバラはアイネズとともに何年も学び、一時期は一緒に住んでいたこともありました。アイネズとともに働く間に、形而上学について講演をするという機会が開き始めました。こういった機会が、結果的に、彼女の教育の仕事への門を開きました。

Copyright 2013, Barbara Y. Martin and Dimitri Moraitis.Reprint from
http://aurablog.org/2013/06/20/barbara-y-martin-part-2-the-years-of-spiritual-training/
日本語訳Megumi 無断転載を禁ず

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