What is Happening to Religion

medium_3271719952-1ジャクリーン・マリー(SAI生徒)

最近のある世論調査によると、アメリカ人の77%が宗教はアメリカ合衆国における影響力を失っていると言っており、これはこの40年で最高の割合です。しかし回答者の75%は、もしこの国がもっと宗教的だとしたらもっとよくなるだろうと信じていました。

アメリカでは宗教の持つ権利は薄れてきましたが、私たちは国民としてスピリチュアルな価値と結びついている利点を認識しています。教会の参列者は常に少ないものの、かつてないほど多くの質問を投げかけ、より深いスピリチュアルな理解を求めています。

どうしてこういったことが起こっているのでしょう。

悲しいことに、宗教的組織の多くがその可能性に従っていません。もしそれらが、あらゆる純粋な宗教の基礎である豊かなインスピレーションをもっと引き出せているなら、私たちが必要とするスピリチュアルな実体を私たちに与えてくれることができることでしょう。

宗教の現状に対する不満を埋めるために、多くの人が、その必要性を埋めようと、子どもの時からなじんできたものとは異なる宗教的実践を試しています。そして多くが、そのスピリチュアルな必要性を満たすために形而上学に頼っています。

卓越した形而上学の教師で透視能力者であるバーバラ・Y・マーティンは、宗教と形而上学は協力して働くと強調しています。両者はともにスピリチュアリティの全体像の中に含まれています。バーバラはオーラが見える能力をもって生まれましたが、ギリシャ正教徒として育ち、父親は司祭でした。ですから、彼女には宗教的な経験と形而上学的な経験の両方の経験があります。 彼女は共同設立者のディミトリ・モライティスとともに、非営利のスピリチュアル・アーツ・インスティトゥートを経営しており、形而上学とスピリチュアルな成長に焦点を当てています。

バーバラは宗教と形而上学はともに協力して進んでいくと教えています。宗教的な経験は魂を信仰に導き、まだはっきりとは見えなかったり、感じられなかったり、経験できなかったりする大事なものに実体を与えてくれます。これは神の内なる確信の始まりです。

バーバラは次のように言っています。「それでも信仰はそれ自体では終わりません。信仰は最終的に「わかっている状態」に道を譲ります。そしてここに形而上学が入ります。形而上学は、成長する魂が覚醒と私たちが呼ぶプロセスを通って、信仰と「わかっている状態」との間にある隙間を渡るのを助けてくれます。」

覚醒は概して東洋の宗教と結びついた用語ですが、どのスピリチュアルな学びにも、魂が個人的な神の経験をなしとげるのを助けるための秘教的・形而上学的な支流があると教えています。

このことが私たちに教えてくれることは、宗教は神の計画においてまだ役割を担っていますが、聖なるインスピレーションに対して常に新鮮で開いた状態でいるように懸命に努力する必要があるということです。また、多くの人が今、スピリチュアルにわかっている状態という形而上学の世界に飛躍をとげる準備が本当にできている状態にあるということも教えてくれます。

Copyright 2013, Barbara Y. Martin and Dimitri Moraitis.

日本語訳Megumi 無断転載を禁ず[subscribe2]

 

The Metaphysical Bible

聖書には、最高のスピリチュアルな可能性に魂が到達するのを助けてくれるようにデザインされた、重要な秘教の原則が埋め込まれています。聖書は信仰の道具であることに加え、形而上学の視点から見た場合、覚醒へいたる道を記した地図として研究することができます。聖書研究は一生を要する仕事です。多くの人々が何百年もスピリチュアルでクリエイティブな努力を重ねてきた仕事の典型です。聖書が主に宗教のテキストとして書かれたのは事実ですが、スピリチュアルな教師で透視能力者としての私自身の研究では、聖書は私がずっと教えてきた形而上学の基礎を述べているために非常に重要です。これらの形而上学の原則は光界の教えとして知られており、聖書には収集されたこれらの教えの最初の記録が含まれています。「宗教と形而上学はうまくやれるのか」とよく尋ねられます。私の答えは完全にイエスです。正しく理解されるなら、宗教と形而上学は同じスピリチュアルなプロセスの異なる側面です。あなたのスピリチュアルな上昇において、両者はそれぞれの役割を果たします。スピリチュアルな教えの宗教的側面は、信仰と信念という主眼をとおして、向上心のある魂を永遠の真実に導きます。これは強い直観的な性質と同様に知性と理性に深く影響を与える積極的な信仰です。これらの鍵をとおして人はスピリチュアルな理解を打ち立て、スピリチュアルな道をはるか先まで歩いていきます。しかし、信仰はそれ自体にたどりつくことが目的ではありません。 信仰は最終的には知に道を譲らなければなりません。そしてここで形而上学が入ってきます。形而上学は私たちが覚醒と呼ぶプロセスをとおして、成長している魂が信仰と知の間の隙間に橋をかけるのを助けてくれます。覚醒をとおして魂は物質のベールを打ち破り、神を直接体験することができます。

聖書の核となる教えは神と直接接触できた英知を得た魂によって書かれたものの、何世紀もたつうちに調整されてきたと言わざるをえません。お伝えするのは悲しいことですが、他の霊感のない人たちの手が聖書に加えられてきました。ですからこれらの秘教的な教えを理解する上でのあなたの目標は、 あらゆる言葉を神のものとして理解しようとせずに、聖書に埋め込まれている神の宝石を探し出すことです

タナク(旧約聖書)と新約聖書の両方に流れている形而上学の統一的な原則があります。もちろんこれらの二つの書はまったく異なる時代に、まったく異なる状況のもとで書かれました。それでも、これらは二つの異なる世界の信仰を代表している一方、形而上学的には統合されたスピリチュアルな原則を表しています

タナクに置かれた神の教えの種子は新約聖書に根をはりました。そして私たちが皆楽しみにしている新しい時代は、この仕事の第三の局面をいずれ提示し、これらの教えの完全な開花となるでしょう。ですから聖書はまさに生きている教えで、進行中の仕事です。

どのスピリチュアルなテキストを読む時も、あなたがその読書から理解すべきことを神の聖なる光が照らすように頼んでください。こういった神聖な書物には、聖なる存在たちが、私たちが用いるべき豊かな情報や知識を与えてくれています。初期のヘブライ人の神秘家の最初期の原型となる教えから、初期のキリスト教の神秘的な先駆者たち、そして今日展開しているスピリチュアル・ルネサンスにいたるまで、聖書に示されているような光界の教えは、志のある魂に提供するものをたくさん持っています。神と神の聖なる光の近くにいるようにしてください。

神の聖なる光と愛のうちに
スピリチュアル・ディレクター
バーバラ・Y・マーティン

Copyright 2012, Barbara Y. Martin and Dimitri Moraitis.

日本語訳Megumi 無断転載を禁ず

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